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七夕の由来を尋ねて七夕飾りの意味が分かった

ラブストーリーが上達を願う行事に変わった

夏の夜空に良く見える細長い大三角形のうち2つが、七夕で語られる織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)の星です。七夕をお祝いする7月7日は、梅雨時期でもあり雲や雨が多くて見えないこともあります。よく見えるのは、陰暦の七夕といわれる8月上旬です。

今年もきっと猛暑。夕涼みがてらに夏の夜空を楽しみながら、七夕伝説に思いを寄せ日中の暑さを忘れてみませんか?

大三角形を構成しているのは、次の3つの星。牽牛星と織女星

  • はくちょう座α星 デネブ(Deneb)
  • わし座α星 アルタイル(Altair) ⇒ 牽牛星(けんぎゅうせい)
  • こと座α星 ベガ(Vega) ⇒ 織女星(しょくじょせい)

織女星と牽牛星に込められた意味が鍵がある

遡ること紀元前9世紀から前7世紀に作られた、中国最古の詩集である『詩経(しきょう)』から始まります。詩経の中には、305編の詩があり、織女星や牽牛星という名称を見つけられます。この織女星と牽牛星が日本に渡り、織姫と彦星になっていくのです。

中国の民話である牛郎織女が広まる

1~2世紀の後漢以降のいくつかの文献に、『牛郎織女(ぎゅうろうしょくじょ)』という中国で語り継がれた民話があります。中国の時代や、地域の文献ごとに物語は異なりますが、いずれもラブストーリであり、1年に1回愛する2人が会うという、誰もが知る七夕の物語の元です。

有名なところでは、河東に住む最高位の神の娘である織女が、河西の牽牛郎(牛飼い)と結婚し河西で暮らします。織女は機織りが上手で働き者で、牛飼いの牽牛郎も働き者でした。結婚生活が楽しくてしかたがなくなり、2人とも働かくなります。怒った娘の親(神)は、織女を河東に戻ることを強要し引き離してしまいます。年に1度、7月7日だけ会うことが許されます。川にカササギが羽を並べて、作られた橋を渡り2人が会えるようにしました。

最初に書きましたが陰暦7月7日は、大三角形が良く見える時期です。しかも、アルタイルとベガが接近するために、牛郎と織女の伝説の星となったようです。最初に星を見て物語ができたのではなく、物語が先だったというのも面白いですね。

牛郎織女の伝説は、755年の奈良時代の日本に渡ります。奈良時代末期に書かれたといわれている萬葉集にも、123首の七夕の歌が寄せられています。このロマンチックな物語に心を奪われた日本人は、多かったのですね。

中国の乞巧奠(きっこうでん)の行事

元々中国では、7月7日には、衣装や書物を虫干しする日であり、先祖が返ってくる日とされていました。牛郎織女のラブストーリーが有名になるにつれて、女性たちが裁縫の技術の上達を願う日に変わっていきます。織女星には、養蚕や糸、針を司る星とされ、牽牛星は農事を司る星とされていたためです。

女たちは、7月7日にの夜月明かりのもとで、針に糸を通すことができれば、裁縫が上手になれると縁起を担ぎました。

やがて裁縫の技術の上達以外に、お願い事を芸術や学問などにも範囲を広がるのです。

12世紀初頭の上流階級の間で、乞巧奠(きっこうでん)の行事が行われます。庭に五色(黄、青、赤、白、黒)で飾ったやぐらを組んで乞巧桜(きっこうろう)と呼び、花や果物、筆と硯、針と糸を供えます。男子は詩を、女子は細工物を作って供え、香をたいて礼拝をしました。この五彩が、後に日本で笹につけられる短冊になっていくようです。

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ちなみに中国では宇宙の森羅万象を、五元素である「木・火・土・金・水」の作用により具象化されたものとして捉えて、色などで当てはめています。これが五色であり、具体的には「黄=土、中央、土用、信」、「青=木、東、春、仁」、「赤=火、南、夏、礼」、「白=金、西、秋、義」、「黒=水、北、冬、智」です。

他にも、中国の陰暦の7月7日には意味がありました。北斗七星の第一星である魁星の生誕の日と、信じられていました。魁星(かいせい)は、文運を支配すると考えられていたために、科学を受験する男子や文人たちも願いことをするようになっていきます。魁星を辞書で引いてみると、「進士の試験に第1位の成績で及第した者」という説明も書かれています。

この中国の風習が日本に伝えられると、宮中で乞巧奠(きっこうでん)の節会が、行われるようになっていきます。七夕祭りに変わっていきます。

乞巧奠が七夕になった由来

宮中では、祭壇に立琴を置き、九本の灯台に灯をともします。几帳には五色の帳と五色の糸をかけ、織姫と彦星をまつりました。後に立琴は、供養のために演奏もされます。

日本にも中国のように、棚機津女(たなばたつめ)という伝説がありました。棚機とは、横板のついた(棚)織機のことです。乙女が水辺の織屋に一晩こもって織物を織り、天から降りてくる神に捧げるという民間伝承です。この棚機津女と、中国の牛郎織女の話が融合して、七夕(しちせき)という言われるようになったとという説があります。

別に、「古事記」の「淤登多那婆多(おとたなばた)」(弟棚機)や、「日本書紀」に記された「乙登多奈婆多(おとたなばた)」などの語句が、語源となっている説もあるようです。

室町時代の七夕祭り

室町時代になると、娯楽的な要素が加わり、織姫と彦星のお供え物の目印として、笹竹を立てるようになります。笹竹に五色の織り糸をかけたのが、やがて布に変わり、江戸時代には短冊(紙)に変わっていくのです。祭壇のお供え物も、笹竹につる下げられるようになっていきます。

江戸時代の七夕祭り

宮中や貴族の間で行われていた七夕祭りですが、江戸幕府が五節供を休日に制定することで、民間行事として広まっていきます。

大名に奉公する町家の娘が多くなっていくと、寺子屋が普及し始めます。手習いの習字や裁縫の上達を願う風土が、一般の庶民にも広まっていきます。短冊に上達の願いを書いてつるすようになったのも、江戸時代からです。

里芋の葉に溜まった夜露で、墨をすって手習いごとの上達を願います。天から授かった水を使うことで、ご利益があると考えられていたようです。

この頃から、家の軒下に笹竹を置かれるようになります。笹竹は七夕の前日の夕方に立てるのが、当時の風習でした。七夕の数日前から、笹竹売りの「竹や、竹や」の声が響き、6日の夕方には町家には笹竹が林立していたといわれています。

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