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『僕はいったい何者』と聞いているの?

読み終えて自叙伝であることに気が付く

村上春樹著 『一人称単数』は、村上春樹自身の自叙伝のようです。読みましたので、感想を書いておきます。

それは小説のような始まりで、読み進めていくうちに自叙伝であることに気づかされました。自叙伝にありがちな、家族構成や生い立ちの説明がないからです。時系列に従って話が展開されるというより(結果的には徐々に年齢が上がっていましたが)、出会った人や体験した事柄ごとにまとめられています。

どの短編も共通していることは、訴えたいことや教訓めいたことはなく、勿論苦労話もありません。村上春樹が体験してきたことを、ただただ淡々とつづられていきます。

小説風な心理描写と日常の身近な出来事が中心で、つい面白い展開を期待するのですが、何のまとめもなく話が終わってしまいます。不可思議な世界観が頭の中を霧のように覆ってしまい、『何故なんだろう?』といった疑問が残り、それが余韻となって浸れました。

短篇どうしの共通点は、僕が主人公である以外にはありません。先に読んだの短篇の余韻で短編同士になにか関連性があるのではと、つい探ってしまいます。

書斎で読書

女性から見た僕の印象が不明

村上春樹こと僕は高校一年生の頃、初恋をします。彼女とは廊下でたった一度だけすれ違っただけで、彼女は『ウィズ・ザ・ビートルズ』のレコードを持っていました。

面白いのは、初恋という言葉を使っていないことです。その後の人生で何度か付き合った女性がいても、このジャケットを持っていた彼女のことは常に意識していたという文章から、多分そうなのかと推測するのです。短篇のタイトル『ウィズ・ザ・ビートルズ』でありながら、内容は次に付き合った彼女のことが中心です。

初恋経験の後、僕に彼女が初めてできました。僕は特別にルックスが良かったわけでも、スポーツで目立っていたとか取り柄があったわけではないのに、何故か好意を持ってくれる女性がいたと語っています。彼女がいない期間が、あまりなかったのかな?

他の短編でも女性との関わりが書かれています。アルバイト先で特に親しい間柄ではなかった女性の送別会の日、僕のアパートでその女性と一夜を共にします。かつて一緒にビアノレッスンをした女性から、嘘のコンサートチケットが送られてきます。こうした話を読みながら、僕という人はすごく魅力的な男性なのかもしれないと想像してしまうのです。

ふと、僕を知る女性の目から見た僕は、どんな風に映っているのか知りたい衝動にかられていきます。ですが自叙伝ですので、僕以外の心理描写はなく、僕が存在しない別の場所の描写はありません。本のタイトルである『一人称単数』の意味に納得した瞬間です。他の方の『一人称単数』レビューで、『単眼』という文字がありましたが、まさしく単眼的な小説です。

多感な思春期時代の僕が、女性との強い印象のエピソードをそのまま書いたといった感じです。また、大学時代、文芸誌にアメリカのジャズミュージシャン チャーリー・パーカーの作り話を書いた、いたずら話もありましたが、こちらもやんちゃな男性にありがちです。弱いヤクルトスワローズのファンである話も、ひねくれものを装う似たような男性が思い当たります。こうした日常の生活のエピソードは、飲み屋で饒舌な男性が語る昔話を聞いている気分にさせられるのです。

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ただ、村上春樹ならではの異次元(あり得ないような)の出来事が、話の展開を面白くさせています。明らかに幻想であるのに僕の心理描写が絶妙で、困惑している村上春樹の姿が現実にあったかもと錯覚するのです。

自叙伝の本音がちらり

最後から2番目の『品川猿の告白』は、まさに現実ではないでしょう。年齢は記載されていませんが、作家として脂が乗り切った頃、例えば50代当たりの話ではないでしょうか?

山奥の温泉宿で猿に背中を流してもらい、猿と晩酌をして猿の身の上話に耳を傾けて夜を過ごします。猿は恋をした人間の女性をどうすることもできないので、女性の名前を盗んで気持ちに整理をつけると語ります。自己のアイデンティティの象徴ともいえる名前を盗むことと、『一人称単数』の小説のタイトルが繋がった感覚になりました。

この『品川猿の告白』の中で、この自叙伝を書いた僕の本音を見つけました。次のようなフェーズです。

『それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事にすぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものと多分ほとんど変わらなかっただろう。しかし、それらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。。。。。。。。。。。。。。。』

僕の心を揺さぶられた数々のエピソードは、読者の私の心も強く揺さぶりました。複雑で迷路のような心境を冷めた言葉で突き放しておきながら、エピソードが僕の心に突き刺さったままでいる状況を想像します。このフェーズを読んだ時、私の好きな村上春樹が蘇りました。

取るに足らないエピソードのはずが

最後の短編は、本のタイトルと同じ『一人称単数』です。

着慣れないスーツを着て小じゃれたスナックで、見知らぬ女性に僕は中傷されます。最後の章で初めて、女性から見た僕の印象を知るのです。ただ、この女性は他の短編とは違い、僕に好意的ではありません。

着慣れないスーツと女性の中傷が、僕のアイデンティティに疑問を投げかけます。僕がスーツという入れ物に相容れないものを感じる違和感、女性に人格を否定された喪失感が引き金となりました。僕はいったい誰なのかと、悩むのです。

誰もがそうであるように人生の中での分岐点で、その都度選択をしながら生きていきます。繰り返された選択の結果が、今いる僕の姿で一人称単数としての存在していると綴っています。明確に書いてはいないけど、取るの足らないエピソードとて関連性が無縁ではないと言っている気がしました。人生に何の影響も与えないエピソードも、実はそうでないのかもしれないと匂わせています。様々な人生の選択肢の一つでも違う方向を選べば、たぶん私はここにいなかったと断言しているところから読み取れます。

そう考えた後に『でもこの鏡に映っているものは、いったい誰なんだろう?』と、改めて問いかけているのです。自叙伝は読んでもらったとおりだけど、あらためて『私は誰』と、読者に聞いているようです。

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