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生涯独身のメリットは既婚者も感づいている

家族内の役割を持たない人の自由

生涯独身で過ごしたアメリカの作家メイ・サートンの『独り居の日記』を読みました。メイ・サートンは、アメリカに住む詩人で小説家でもあり、日記や自伝的回想記なども残しています。『独り居の日記』の舞台は、58歳のサートンの1年間の日常です。話題は、孤独・植物・動物・芸術・愛・フェミニズム・同性愛・老年・生と死・友情・政治・経済・社会問題など多くのテーマがちりばめられています。

語られているテーマの中に見え隠れするのは、メイ・サートンの独り居を選んだ理由です。独りだからこそわかる人の本質や家族の在り方が、独特の視線で書かれています。誰もが心の奥底に隠していた普通の悩みを、そっと引き出しています。幸せ定義どおりの暮らしの中にも、苦痛・怒り・絶望を隠し持っているのだと気が付かされます。

一般的な幸せのイメージは、ほぼ一致しています。結婚して子供を持ち育て上げること、老人になれば子供や孫に支えられて静かに暮らすことです。 しかし、一人暮らしの幸せについてイメージできないために、マイナス面ばかりが語られます。

中庭に1個だけの椅子

本当の独り居の価値は語られていない

昨今、結婚しない男女が増える中で、そのメリットがボツボツを語り始めています。メリットのコラムもありますが、通り一辺倒な誰もが思いつく言葉が並べられていて説得力がありません。そうしたコラムの作者は家族持ちで、客観的に結婚しない男女の姿を観察して書いているに過ぎないからです。

独居を続けたメイ・サートンは、家族持ちの生活を『生の本質から遠ざかるのは不可避』とまで書いています。続けて『一人で暮らす、つまり、ドアを開き、未知の人を入れる空間を持ち、新しい友を招き入れ、いつくしむ、といった独居の価値については、十分語られていないと思うのだ。』と綴られていくのです。アメリカは日本とは違いホームパーティーを開き、日本よりは開放的なはずですが、もっと精神的なことを言っているようです。

家族の中での役割つまり母であるとか妻であるといった役割で、外部の人と接するのではなく、役割とは無関係の1個人として外部の人と交流し続けられることが、独り居の価値といっていると解釈しました。

ちなみに日本では、子供を持つと「○○ちゃんちのママ」と呼ばれ続けますし、旦那の仕事関係では「○○さんの奥さん」と呼ばれ、名前で呼ばれることはほぼありません。

押し殺した女性の悩みは家事負担

女性の社会進出が進み男子の「育休」という言葉を耳にし、女性の家事負担は全体としては減ってきてはいるものの、なくなってはいません。国ごとに男女平等の意識は、日本とスウェーデンは75%以上、アメリカでさえも60%以上が男性の方が優遇されているとの回答が得られています。(男女共同参画局ホームページより参照)

アメリカに住むメイ・サートンでさえ、依然として女性は家事や育児、介護の作業に携わることを当然とした風潮が家庭内にあると述べています。

学生時代に見いだした自分の可能性や特技を生かして、男性はそのまま目標に向かって突き進んでいくことができるけれど、女性には、料理・洗濯・皿洗いを期待されています。結婚し仕事を続けていく選択をすれば、多くのエネルギーと同時に、時間を組み立てる能力が必要になります。加えて子供ができれば、知的な生活から乳母への転身の跳躍にははかり知れない距離があると綴られているのです。

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私の経験からも仕事を持ちながら働く主婦(私自身も含めて)は、上述のようなことを多かれ少なかれ口にし、納得ができない方は離婚してしまいました。それでも気持ちに折り合いをつけながら、仕事を続けている方もおりました。

極端な言い方をするなら、女性の結婚は自己実現の妨げになるということなのでしょうか?

メイ・サートンの周囲でも、家事負担への不満を持ち口にしている方は、決して無責任な女性ではなく、子供を持った情愛の深い女であることが多いと書いています。一人暮らしが、子供を持ち幸福に結婚した女性から、”羨ましがられる”ということには、何かしら間違ったところがあるとありました。また、女性の自己実現のために、結婚をしないという対価を支払うのはよい解決法ではないとも書かれています。

残念ながら、日記を読んでいると家事労働から解放されることが、女性の独り居の価値の一つであることには間違いではありません。

孤独との戦いの武器

独り居のデメリットは、孤独感です。いろいろな言葉で孤独感との闘いについて書いています。孤独感が独り居の価値であるといった、一見矛盾しているような表現をしています。

ストレスや抑うつが酷い時、孤独は衝撃を弱めるクッションが何一つないこと、そして孤独に耐えて生きていくための処理に仕方について、興味があると書かれています。

解釈が自己流だけど、家族が居れば抑うつの状態でも会話で気を紛らわせることができます。一人だと真っ向からパンチを浴び続けなければならない、パンチから逃げないことが考える力につながるということなのでしょうか?
生きることは考えることと別の日に、書かれていました。孤独は考えるための道具ということなのでしょうか?

また別の日には、孤独は挑戦であり、その中でバランスを保つことは危険な仕事に違いないとも書いています。孤独な時間を持たない人が、愛する人と長い時間一緒にいることは、一人でいるより悪いとあります。孤独は安らぎのための道具ということなのでしょうか?


孤独は、考えることや安らぎを得るために必要。だから、独り居には価値があると繋がるのでしょうか?

家事負担を武器に

上述した女性の家事負担も、孤独と戦う武器にしています。

『「もし私が一人でなければどうか考えてもごらん。毎朝十人の子供を学校へやり、彼らが帰ってくるまでに大洗濯をしなくちゃならないとしたら?二人が風邪をひいて寝込み、腹を立てたり、退屈してなすすべもないとしたら?」私を、神々の賜物ように ― 事実、そうなのだけれど ― ありがたい孤独に戻らせるには、これで十分である。』

家族と暮らす幸せ

独り居の価値を日々綴りながら、最後の方で家族と暮らす幸せの手紙を紹介していました。メイ・サートン自身この手紙で安堵したとありますが、私も読んでこうした幸せを全く否定しているわけではないことに安堵します。

『ただ、自分だけのためにしなくてはならないことなんて、なんて退屈なことなのでしょう!―中でも、食事を作り、それを一人で食べる味気なさは格別です!』

価値は自分で作るもの

多様化の時代といわれ、一昔前に使われていた勝ち組、負け組といった枠が薄れていきました。幸せの定義も多様化に違いありません。

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