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シナリオライターになりたい人に薦めたい

シナリオライターになるために用意された人生

『北の国から』で日本中をテレビに釘付けにした、脚本家 倉本聰さんの自伝が今年6月に出版されました。飾らない方のようで、恥ずかしいことも淡々とつづられています。タイトルは『破れ星 流れた』です。ちなみに破れ星って、どういう星なんでしょうかね。

子供のころからの日々の体験でこういう風な過ごし方をすれば、シナリオライターになれるのかな?と思いながら読みました。逆に倉本さんだけ特別に子供時代の親から受けた影響や、浪人時代の破天荒な生活が用意されていたかのようにも思えてきます。

北の国からロケ地―石の家

自叙伝を脚本にしてドラマが作れそう

自叙伝の登場人物は生き生きしていて、性格や表情が頭の中に映像として浮んでくるようです。主人公である倉本聰さんの気持ちも、倉本さんになったようにのめり込んでしまうのです。そう、まるでテレビドラマを見ているかのような自叙伝です。

この自叙伝を使って、役者に演じてもらえればすぐにドラマができそうね。「根っからのシナリオライターなんだわ、この方は」としみじみ感心しました。

シナリオライターになるためのヒント

倉本さんの祖父である山谷徳次郎氏は、医師であり医師向けの総合サービスの会社 ”日新医学社”の創業者です。後に、衆議院も務めています。父である山谷太郎さんも日清に勤務後、日新医学社を継いでいます。しかし、祖父の商才が受け継がれることなく、神経をすり減らす毎日を送ります。後に会社をたたみ借金だけを残して亡くなりました。

野鳥の鳴き声と言葉遊び

野鳥観察にのめり込んだ父に連れられ、倉本さんも”日本野鳥の会”に参加します。当時4歳だった倉本さんは、”聞き流し”に夢中になるのです。”聞き流し”とは、鳥のさえずりの節回しをそれに似た言葉で置き換えることです。

鳥のさえずりを次々と考えだし、ついには図鑑の野鳥の名前を丸ごと全部暗記してしまいます。

自然の中での野鳥の観察、言葉遊び、他にも大人たちの会話などに触れて過ごしていました。きっと何かを得られたに違いありません。

宮沢賢治の韻律

5歳になり読み書きができるようになると(えっ5歳って早くないですか?)、宮沢賢治の童話集を、1週間に1本ずつ声に出して読むことを義務づけられました。お父様から話の内容はわからなくても、声に出すことで賢治の文章の韻律を身に付けるように告げられるのです。

お父様は俳人でもあったために、言葉の韻律への学び方を知っていたのですね。

このことは後にシナリオライターとなった時、役立ったと書かれています。

”北の国から”の五郎の人物像

倉本さんのどのドラマを見ても、古臭さを感じさせません。しかし倉本さん自身は戦争を経験し、戦後の悲惨な日本を目の当たりにしています。丁度私の親とほぼ同世代ですが、私と同じ世代なのではと錯覚するほど親しみを感じるのです。

”北の国から”の五郎の人物像の輪郭は、倉本さん自身のお父様だったと伺えるシーンがありました。倉本さんは戦後お父様の会社が苦しいのを推し量り、”京都を巡る古寺探訪の旅”を言い出せません。

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そのことを、妻から聞いたお父様は『子供が金の心配なんかするもんじゃない』といい、旅費を出してくれました。その後、床の間にあった季朝の壺が消えていたそうです。

倉本さんはこのことを、自分につけてくれたお父様が気に入った家庭教師的な方に相談します。『男ってもんは誇りというか―云い方を変えれば、見栄ってもんがある。つまらなく見えるが大事なもんだ。見栄が男を支えていることがある。それを崩されると男は傷つく。お前にも多分そのうち判る。』と答えます。

また、『そのことに同情されたり、憐れまれたりすると男は傷つく。まして子供から同情されるのはきっと耐えがたい屈辱だろう。』

重なりましたよね、五郎の人物像と!!五郎と息子のジュン君のやり取りに、こんなシーンをいくつか思い出させます。

北の国からロケ地―石の家の前のウッドデッキ

予備校をサボって喫茶店で観察

予備校時代はほとんど勉強に身が入らず、喫茶店で参考書を開くもののすぐに他のことに目が移ってしまいます。私にも身に覚えのある言葉です。その他のこととは、喫茶店のアベックの会話と行動を観察することです。

会話をノートに書き写しながら、会話と会話の間に気が付きます。シナリオに全ての会話を書くべきではないのではないか、伝えないことの中にシナリオの真髄があると結論するのです。

アベックが相手のカップに無言で砂糖を入れる動作を見て、付き合いの年数や深さが伺えることもわかってきます。会話以外の伝える方法を知った瞬間です。

東大時代は劇団に入り浸り

2浪の末東大に入りましたが、やはり大学には通うことなく演劇や映画鑑賞、アルバイトと”劇団仲間”での見学に時間を費やします。

”劇団仲間”の中村俊一さんという演出家に惚れ込み、一挙手一投足を盗み見ながら芝居の作り方を学びます。

このことを顧みて倉本さんは次のようにまとめていました。『普通は理論や理屈を学んで、それから実社会に入るのだろうが、僕の場合それが逆だった。まず、実社会、実地の現場に身をいおいて、それから少しづつ理論や概念に遭遇したのだ。すると理論が無理なくスッと心に入って来た。そのことが僕にはたまたま合っていたのだ。』

イヤイヤ、この経験があるから今の倉本さんがあるんですよ、って思いませんか?

”劇団仲間”の劇団員との交流が深まるにつれて、各々の長所や欠点が解ってきます。新たな役者の個性を描く手法として、長所を描くより欠点を見つけてその部分を書く方が良いやり方なのではないかと気が付きます。倉本さんのその後のドラマツルギーは、この発見が生かされています。

ニッポン放送時代の修行

ニッポン放送に就職が決まり、上司の羽佐間さんから企画書の書ける人間になるようにと課せられます。羽佐間さんの過去の職場である大映時代の仕事は、あらゆる雑誌を読み漁ってその中から映画になりそうなものを探し出し、それをプロットや企画書にまとめ上げるという仕事でした。

倉本さんも、明記はされていませんがきっと同じように修行をしたはずです。

このころの倉本さんは世に出るための三鉄則『うまく、早く、安く』をもっとうに、寝る間も惜しんで書き続けたそうです。隠れてコッソリ副業もやり続けて、それはそれは大量にシナリオを書き続けたに違いありません。

副業の方が成功し、4年後にニッポン放送を退職することになりました。”倉本聰”としてのフリーで働く決意を固めます。意外と小心でやっていけるかどうかを悩んだようすが書かれていて、クスリと笑いたくなる部分です。

自叙伝はここで終わっています。倉本さんらしいやり方で、シナリオライターになりたい方へのエールが伝わる内容ですよね。

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